世田谷の齋田家

 小田急線世田谷代田駅から隣駅梅ヶ丘にかけての地域は昔、代田村といい武蔵野の色濃く残る純農村地帯であった。代田八幡宮から南へのびる一帯は、小田急線敷設の昭和初年頃は近在に知られた梅林であり、環状七号線が開通し、宅地化が進む昭和30年代頃まで残っていた。今は環状線の交通量も増え、ますます宅地が過密化し、往時の面影を留めない。そのような一画に齋田家は位置している。建物は、幕末に焼失したものを復元するために6年間の準備期間を経た後、昭和6年より4年かかって建てたものである。当時としては材料・技術共に最良のものを用いており、近代の数寄屋造りとして建築学的にも貴重な資料であることから、平成8年世田谷区の文化財に指定されている。また敷地内の豊かな樹木はこの周辺においては貴重な緑といえるであろう。

 齋田家は木曽義仲の老臣・清和源氏中原兼遠を遠祖と伝えられ、のち齋田姓を名乗り、吉良氏に従った。天正18年(1590)吉良氏の没落後土着、帰農し、代田村開発の中心となり、江戸中期以降には開墾などによる土地の拡大が進み、嘉永期段階では75石を所有するにいたった。このためもあり齋田家は、文政8年(1825)8代平吉(号・東野)の代に、代田村の年寄り役から名主の家になり、以降代々同役を世襲した。 

 また同家からは江戸後期以降学者・文人を輩出している。初めて名主になった8代東野はその中でも最も優れた学者であった。安永2年(1773)7代万蔵の長男として生まれ、名は大在、通称平吉、字を子質、別号を安斎といった。幼より学を好み、江戸に出て書を東江源鱗に学び、叔父の館林藩秋元家の儒官齋田東城(敬煕)に経史を教授された。のち一家をなし代田村に私塾発蒙塾を開くと、令名を慕い江戸より有為の士の入門する者が多かったという。儒者安井息軒らとの交流も深かった。嘉永5年(1852)に没している。その子9代万蔵は、享和元年(1801)に生まれ、名は鵲、字は、有巣、号は雲岱、墨林斎と称した。画を大岡雲峰に学び、特に本草学関係の草木・花・動物等の精密な写生画を志し、それらを纏めた図鑑を多く残した。安政5年(1858)に没している。その他、10代東岱、その妻小枝子等多くの文人を出しており、世田谷の地方文化発展に貢献を成した。

 維新後は明治元年(1868)10代平太郎(号・東岱)が代々自家で小規模に生産していた茶の商品価値に着目し、同3年には伊勢四日市から製茶師を招き、本格的に製茶を開始した。その齋田茶は、各種の万国博覧会や内国勧業博覧会で入賞するなど、品質には定評があり、輸出も盛んに行った。明治17年(1884)設立の「荏原郡茶業組合」には11代齋田又一郎が組合長に就任しており、世田谷の茶業の発達に大きな役割を担ったのである。

※齋田記念館リーフレットより転載

齋田記念館リーフレット
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